TOMATIS物語
「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その12
なぜ時間通りに授業に出られなかったかと、疑問を抱く方もいるだろう。またもや病気のせいなのか。ノン。いつもピンピンしていたわけでもないが、もう床につくような大病を患うこともなかった。それではなぜ?実は働いていたのだ。仕事を求めてあちこちを歩き回り、夜は夜で封筒の宛名書きに精を出した。それは何千枚もあった。
私は希望を叶えてくれた父に感謝するために、生活費は一銭たりとも父に頼らないようにしようと心に決めていた。学年の初めになると父は決まって六千フラン(当時としては妥当な額である)出してくれたのだったが、父が私に会いにくるときに(年に二ヶ月はテオフィルゴーチェ街の私のアパートで過ごした。だいたいはオペラ座との契約期間中だったが、時には休暇も利用した)、それは必ず返済するようにしていた。
しかし私自身が親となった時、それが父を喜ばせることだと思い込んでいたのは間違いだということに気づいた。父が舞台を去ったとき、私は父に快適な老後を過ごしてもらおうと援助を始めたのだが、それが父にとってはかえって負担となった。父は、私がかつてそうしたように援助のお返しをしたかったのだが、それができないことを気に病んだのだった。そのとき私は、昔若気の過ちを大いに悔やんだ。だが三十年代の初めには、そんなことは思いも寄らなかった。私はただ父に金を返すために働き、それを大好きな父に対する感謝の証としたかっただけなのである。
いずれにしても、当時の私は行動の一切を自分自身で決めていた。自分を小さな大人だと感じていた。そして私にとっての大人の生き方とは、ただがむしゃらに働くことだった。歯をくいしばって努力することも苦痛ではなかった。それは、しごく当然のことだったのである。十一歳から十三歳にかけての、あのすさまじいエネルギーは、一体どこから湧き出ていたのだろうか。私はまだ、その確かな答えを見出してはいない。
私の精神力を父への愛情と父の私への愛情が支えていたことは間違いないだろう。それだけでも十分にエネルギー源の説明がつくかも知れない。ヌーイで独り暮らしをするようになったその日から二十五歳になるまで、私と父は文通を欠かさなかった(無論、一緒に暮らしていた期間は別である)。私は母にもそうしようと努めてみた。私は幾度も母に便りを認めたが、母はたどたどしい行数の文字さえ書こうとはしなかった。
私は父のおかげで学びながら、父のために学び、その努力のすべてを父に捧げようとしていた。より正確にいうなら、父に倣うことで父との絆を強めているのだと信じていた(この点はいくら言っても言い過ぎではない)。しかし、ずっと後になってそうと知るのだが、そのころの父は、怠け者になったのではないにしろ、子どものころに私が見てきたような仕事の鬼ではなくなっていた。ある日、私はかなり成長してからのことだが、父は私の生活のテンポについていくのは苦痛だと漏らしたことがある。私の方は父の真似をしているつもりで、昼夜を分かたず働くのが習慣になっていたのだが、それがヌーイで私と一緒に暮らす間、父の生活リズムも狂わせてしまったらしい。私は夜更けに床に就き(宛名書きのアルバイトがあった)、夏も冬も、朝の四時には起床した。私が電灯をつけるので、父は扉の隙間から漏れる明かりで目を覚ましてしまうのだった。
「やれやれ、もう起きているのか。私はもう少しうとうとしていたかったのに」
しかし、そう言いながらも父は、決まって五時までには起きていた。私はそのとき、父が私の部屋で「バカンス」を過ごすとき意外は、決して七時前に床を離れなかったということに気づかなかった。
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