「トマティス物語」で、波乱万丈の人生を送った博士の自叙伝「耳と人生」を読んでいきましょう。
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TOMATIS物語

「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その11

 こうして私は、十一歳のとき、独りでパリで暮らすことになった。リセの寄宿生としてではなく、自由に行動できる通学生としてだった。両親も友人も自分を監視する人もいなければ、困ったときに金を貸してくれる人もいないパリ。振り返ってみると、よくそんな冒険をしたものだと不思議に思われるが、そのときはそれほど大変なことだとは思っていなかった。

  子どもの保護という観点は、当時と今とではまるっきり違う。今のように忙しくも、こすからくもない社会で出会う危険は、ずっと少なかった。それに十一歳ともなれば、今の子どもと違って随分と世慣れていたし、早くから大人としての責任を負うことにも慣れていたのだった。いずれにしても家族の目には、パリ遊学というこの決定も、医者になりたいという私の希望に比べれば、それほど突飛には映らなかったのである。

  父は私をパリ郊外のヌーイ、テオフィル・ゴーチェ街六番地のアパートに入れてくれた。当時のヌーイは、まだ村だったころの面影を残していた。そこからリセ・パストゥールに通う道々は、建物の間よりも公園を抜ける距離の方が長かった。子どものころ、この近辺に住んでいたという何人かの教師は、いま市場のある場所はジャガイモ畑だったし(あのパルマンチェが最初の実験的にジャガイモを植えたのがそこだった)、よく乳牛の群れにも出会ったものだと語ってくれた。

  アパートは居間兼食堂、寝室、そして台所と浴室から成っていたが、私は浴室を書斎に使っていた。何とも異国にきたという感じがつきまとうのは、毎日の寒々しくてはいいとの天候だった。私はやはり「太陽の子」だったから、それにはこたえた。日光が懐かしかった。後年、スペインに惹かれるようになったのは、そのときの反動かも知れない。しかし私をもっと驚かせ、悲しませたのは、パリの土の色だった。土は赤くなかった。南仏の赤い畑に慣れていた私は、すっかり戸惑ってしまった。やがて異様な畑の色にも慣れてきたが、赤い土への愛着は消えなかった。後年、しばしばアンダルシア地方のアルメリアに近い小さな村を訪れるようになった理由の一つも、赤い土への憧れなのである。

  こうして私は十一歳にして、自分の国ではない地(そう思えた)に腰を据えたのだった。とにかく、母との諍いから逃れられたのは嬉しかった。だが私は、炊事から洗濯、裁縫から掃除まで、さまざまな仕事を一人でこなさなくてはならない。すべての問題に自分で策を見出さすのは並大抵のことではなかった。補助も手助けもなしに、持ち金だけで生活費を賄わなくてはならなかった。やがて少数ながら友達ができるようになると(私は同級生から仲間外れにされた。その訳は後で説明しよう)、そうした悩みはすべて解決するようになった。とりわけ、ジャン・コティは私の親友になってくれた。両親にも引き合わせてくれ、しばしば夕食にも招かれるようになった。

  学校への行き帰りの道で、リセ・パストゥールの学監を務めていたボネという人に出会ったのも幸運だった。ボネはトゥルーズの出身で、父の美声の絶対的賛美者だった。彼は周期的にテオフィル・ゴーチェ街のアパートを訪れ、あれこれとアドバイスしてくれたばかりか、私の指導司祭にもなってくれた。私の抱える問題をすっかり理解してくれた彼は私の勉学とまた学校当局との関係についても、権限の許す限り便宜を図ってくれた。今だから言うが、最初の二年間、私の成績は最悪だった。普通ならとっくに退学になるところだったが、ボネはいくつかの特例処置をとって私を助けてくれた。たとえば、予定の時間に学校にたどり着けなくても、作文の提出を許可してくれたりもした。

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