TOMATIS物語
「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その8
クレマン伯父は、兄ヴィクトルとは違っていた。一家の末っ子だった彼は、親から甘やかされて育った。こちらは車とスポーツに目がなかった。彼はしばしば私をローゼルガントに乗せて、アルプスやピレーネ山脈をドライブした。ローゼンガルトは、当時の有名な新車である。この叔父のおかげで、私は明け方の素晴らしい光景を目の当たりにすることができた。
サン・ジョセフ街の日々は、こうして明け暮れた。怒り狂った日、幸せな日、燃えざる諍いの日、この上ない優しさに包まれた日・・・・。子どもの頃の、胸をわくわくさせる、ぱちぱちと音を立ててはじけるような長い日々、好奇心に満ちた絶えざるドラマと興奮の連鎖。私の頭の中には、トマティスおじいさんの気分を沸き立たせるような歌声やラッジおじいさんの止むことのないぶつぶつ声、母のがみがみ声が響きわたり、そこに父の沈黙が交差する。父の沈黙は、「パパはここだよ、さあ、なんでも言いなさい」と無言のうちに語っていたのだった。
この温かい沈黙の方が、饒舌な愛情の表現よりもずっと身に沁みた。なぜならば、私はずっと自分の言うことをきいてもらうために闘っていたからである。多くの子どもたちがそうであったように、家族の権威によって酷にも「口をつぐむ義務」を強いられ、反抗しても屈服させられるのが常だったからである。それでも、少なくとも一つの耳は私の方に向けられていた。そして私を理解しよう、私を救おうとしているのを私は知っていた。
私とは直接関係はなかったが、もう一つの紛争が家中を騒々しくした。父方の祖父母と母方の祖父母(南部ではこの関係を「コンペール」と呼んでいる)の間に潜在的な対立の種を蒔いたのは、アルフレッド・ラッジの態度だった。それでも、四人の意見がよく一致する話題が一つあった。それは戦争についてである。どちらの祖父母も何かがわかっていたわけではない。ただトマティス側は、イタリア人の感情から、息子たちの大部分がフランスのために前線に送られ、決して帰ってこないことに恨みを募らせていた。こうした悲劇を生む制度は、彼らにとっては途方もない不条理である、また血生臭い罠なのだった。彼らは激しく軍国主義を非難した。しかも祖父にはムッソリーニへの反発から結婚したという事情もある。父もこの平和主義には同調していた。
1923年か4年、父は非常に条件の良いステージ契約でニースをワンシーズン、つまり六ヶ月間留守にすることになった。あれこれと記憶を辿ると、このころ父に連れられて何度か旅行をしたことが思い出される。特にベルギーでは二つのことが私を驚かせた。一つは何もかもが、特に歩道が極めて清潔だったこと。もう一つはタルチーヌ(サンドイッチ)がばかでかいことだった。歌手の世界で、年々父の地位は上がっていった。声の質についていうなら、四十一年のキャリアの間、フランスでは全くライバルが現れず、その世界では最高のギャラを誇れる人になっていた。しかし父は、途方もない気前よさでそのシーズンの稼ぎを取り巻き連中にばらまいてしまったから、金欠に陥ることもしばしばだった。そこで家計を破綻させないように定期貯金が不可欠となった。そして、それがまたペシミズムの嵐を巻き起こし、我が家に緊張を醸し出すのだった。
私は手の焼ける子だった、とよく聞かされた。どうも乳飲み子のころから、夜も日もなくむやみに泣き叫ぶタイプの子供だったらしい。泣き声で夜のレッスンを台無しにされた父は、怒り心頭に達して、私を洗濯物か何かのように屋外に吊り下げる方法を編み出した。後にしばしば私を襲うようになるめまいは、この荒療治のせいだったかもしれない。
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