TOMATIS物語
「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その6
私は時々、祖母の散歩についていった。ほとんど言葉を交わすことはなかったがそれでも一緒にいることはできた。今行ってみると何の変哲のないところだが、当時はパラダイスと見まがうほどの場所があった。そこでイタリア人の子供たちと会い、一日中裸足で駆け回ったものである。遊び場は無限に広かった。そこはサンマルタン・デユ・ヴァール地方のボールーの近辺だった。喉が渇けば、山羊にしがみつき。その乳房から直接乳を吸った。
祖母が亡くなった時、アルフレッド・ラッジはしたたか涙を流した。だが、心から泣いていたのだろうか。それは結局、祖母に与えることのなかった愛を悔やんでの涙か、あるいは自分の守り役を失ったという、もっと俗っぽい、エゴイスティックな涙だったのかも知れない。いずれにしても、祖母の死によって祖父はいっそうの孤独に陥った。祖父と交流のあった人たちも、私が以前から気づいていた二重人格を嫌って、自然に足が遠のくようになった。すべてが祖父の罪というわけではない。誰もそこまで自分の神経症の責任を取ることはないだろう。それでも裏表のある振る舞いのために、人は少しずつ離れていく。運命の皮肉というかその最晩年のころは、少しでも祖父の相手をし、ちょっぴり親しみを与えるのは私だけになってしまったのである。
二人の祖母に私はあだ名をつけた。山を歩いた方の祖母は「ネーナ・デッラ・モンターニャ(伊)」、「山のおばあちゃん」という意味である。もう一人の祖母は「ネーナ・ドゥ・パイヨン」つまり「パイヨンおばあちゃん」。いつもニースを横切って地中海に注ぐパイヨン川で洗濯をしていたからである。
この二番目の祖母は(この本の冒頭でちょっと紹介しておいたが)、とてもよい人だった。片手で持ち上げられそうな小さな人だったが、その体には想像を絶するほどのバイタリティーが潜んでいた。このおばあちゃんは決して死なないと、私は信じていた。祖母の母親は百三歳まで生きたし、二人の伯母もそれぞれ百五歳と百八歳まで長生きした。そこでパイヨンおばあちゃんも九十歳くらいまではすこぶる元気だったのだが、悪性の風邪から肺炎を起して亡くなってしまった。私とこの祖母は特に深い愛情で結ばれていた。命の恩人だったばかりでなく、多分に私は彼女の子供といった関係にあった。
私は父方の祖父も大好きだった。この祖父も私を同じように愛してくれた。ニースの家の記憶には、いつもこの祖父が共にいる。そう、ここで、これまでに紹介した三組の夫婦が一緒に一つの建物の二階を占めていたことをはっきりさせておかなくてはならない。私の両親は右翼を占め、母方の祖父母は真ん中の部分に、父方の祖父母は左翼に住んでいた。こうした同居の配置は、南仏の家族にはよくあることである。問題は、神経を尖らせるような事件が年がら年中絶えないということだった。ましてや、ラッジおじいさんは「事を起す人」として知られていた。
トマティスおじいさんは私の遊び相手だった。私が三歳か四歳のころ、タロというゲームをやったことがある。そのカードは巨大で、子供の手には持つのがやっとだったが、もっと厄介なことが別にあった。それは祖父も私も、ゲームの規則をよく知らないということだった。それなのに二人は勝負に熱中した。私は子供だったから無理もないないと思うが、祖父その子供に勝ちたがった。そこが祖父の性格の特異なところである。「ぼくがこの回は勝ったよ」と宣言すると、絶望の淵に追いやられた祖父は、もう泣かんばかりだった。祖父はカードを投げ捨て、私を置き去りにして立ち去った。そして、祖母にこう言っているのが聞こえてきた。
「でも、いずれにしろわしが勝ったんじゃ。絶対わしじゃよ、誰が何と言っても」
*禁無断転載・複写
|