「トマティス物語」で、波乱万丈の人生を送った博士の自叙伝「耳と人生」を読んでいきましょう。
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TOMATIS物語

 

「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その3

 私が生まれたとき、父は二十歳だった。
 その名はアンベール。父方の祖父はピエモンテの力持ち、アルプス山麓に住む真のガリア人だったから、父にダンテと命名するといってきかなかったのだが、市役所の職員はこれに頭から反対した。したがって、ダンテは父の第二の名となった。アンベール・ダンテ・トマティスは、若くして実務の世界に入った。父はしばしば、町のプロテスタントの名家だった医師、ドクトル・ピラトの助手だった母の手助けをした。そしてさまざまな職を経た後に、「レクレルール・ド・ニース」という新聞社で活字用の鉛を溶かす職工となった。そのころ父は胸を病んでいた。それは、いうならば時代病、南仏病、そして父の家系の病だった。(父の兄弟姉妹のうち、何人かは結核で死んでいる。)だが、父は体格がよく、背もすらりと伸びて、どこか人を圧倒するところがあった。顔だちは彫りが深く、鋼鉄のように涼しい、青い目をしていた。ブロンドに近い豊富な髪は、適度にウエーブがかかっていた。

 父は昼も夜もなく働いてばかりいた。すさまじいエネルギーだった。三交替のところを一人で請け負っていたのを見たこともある。父はまた、仕事の合間には、欠けていたフランス語の教養を身につけることに追われていた。子どものころからニース方言しか話さなかった父は、独学でフランス語の会話と読み書きを習得した。その結果、父は完全にフランス語をマスターし、手紙の文章は模範的な域に達した。私が保管している父の書簡は、彼がいかに完璧にフランス語のメカニズムを身につけていたかを如実に示している。父はほとんど仕事を休むということがなかった。私は子どものころ、父を通して、大人の生活というものは息つく間もなく与えられた課題をこなし、努力に努力を重ねることだという揺るぎない信念を持った。それはその後、私の生活の信条ともなった。いまでも私は、たゆまずに働く労働者である。義務からではなく、それが自然のリズムとなって私の身についてしまった。だから仕事なしにいると、孤児になったような思いがする。

 父は1914年の戦争が始まる日まで、一度も歌というものを歌ったことがなかった。戦勝を祈って、「レクレルール・ド・ニース社」ではちょっとした宴会を開いた。多くのフランス人と同じように、ニソワ(ニース人)もベルリンが三週間以内に降伏するものと信じていた。それに前線が地中海の沿岸から遥かに隔たっていたこともあって、誰しもが何も考えることなく愛国心に酔いしれることができたのである。さて、宴席がデザートに入ったとき、各人が一曲ずつシャンソンを歌わなくてはならなくなった。笑い者になりたくないと父は必死で拒んだが、しつこく請われるままに立ち上がり、しぶしぶ、ラ・マルセイエーズを歌うことにした。ところがその声が余りにばかでかかったので、一同は仰天した。ディレクターのガリバルディ氏は、父を傍らに呼んで、自分が金を出すから音楽と声楽のレッスンを受けなさいと囁いた。そのとき、父は十四歳だった。あれこれと仕事を抱えた上に、また新しい課題が加わった。才能が認められたからといって、有頂天になることはなかった。素晴らしい人間であり、有能な教育者でもあった二人の先生について学びながら、父はそれまで通り従順に仕事を続けた。

  父は二人の教師から極めて役に立つ教えを受けることができた。父は二十一歳で舞台に立ったが、それでも新聞社の仕事を投げ出しはしなかった。次第に昇進して、その頃はいっぱしの編集部員になっていたからである。しかし歌手を目指しての長い準備期間は立派に実を結んだ。すぐに人気は高まり、他の町で歌う契約が殺到した。やがて父はプロの歌手としてデビューした。「気品あるバス歌手」として国際的な名声を得るまでに、それほど時間はかからなかった。

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