TOMATIS物語
「耳と人生」
第T章 黄色い靴 その2
まず自己紹介をしておこう。私は1919年12月29日か30日、あるいは31日の夜11時30分、ニースで生まれた。時刻は確かなのに、日付けは曖昧だ。市役所には1920年1月1日と届けられている。私の家族は人口調査のときに面倒がないように、少々嘘をついたのだろう。両親には他に子どもはなかったはずである。
私たちの一家はニース旧市街サン・ジョゼフ通り一番地の、いまは跡形もない建物の二階に住んでいた。父が生まれた所は、そこから数軒先の十番地だった。私には大きな亀裂の走ったぼろ家を取り壊す作業を見た記憶がある。かつては美しかったはずのその館はイタリア風の建築だった。昔は中に裁判所もあって、町の名士たちの会合もしばしば開かれていたらしい。
我が家の台所は、かつては市議会の会議室だった一画にあった。納戸の奥に秘の扉があったことをよく思。子にとっては住居というよりも、神秘的な、夢を掻き立ててくれるお伽話の屋敷といった方が相応しい家だった。いまそこに建っているのは、どこにでもあるような味も素っ気もないビルである。古いニースは、自身を破壊する菌を自ら培養してしまった。老朽化した建造物と、それに対する再建計画者の無関心が、この界隈の個性を徐々に削ぎ落とした。わずか数十年の間に、15世紀依頼話されてきた、れっきとしたニース方言さえも聞かれなくなってしまったのである。
私が子どもだったころ、ニース方言は日常使われる、いわば母国語だった。父ばかりでなく、隣近所の人たちもみんなこの言葉を話していた。しかし、フランス語も話すことのできた数少ないお偉方たちは、この方言を外国語と見なしていたに違いない。ともあれ、このニース方言は、私たちの独自性をいやがうえにも強調していたのだった。
多くの人はそう思っているようだが、ニース方言はラングドッグ語(フランス南部の多数派方言)ではない。だからプロバンス語(ラングドッグ)を話す人たちとの会話にはとても骨が折れた。彼らに比べれば、ロンバルト川の向こうに住むイタリア人と話す方がよほど楽だった。ニース方言もイタリア語も、ローマ帝国の昔からこの地に住んでいたリギュール人の話すリグリア方言だったからである。川を隔てた人々の間での結婚が多かったのは、恐らくそのためであろう。
私の母は、当時、モナコの副領事だった伯父の家に滞在していたイタリア女性の子として生まれた。母の家族は、イタリア・ロマーニァ地方のフォルリに長い間住んでいた。だから母はイタリア人なのである。母方の祖父アルフレッド・ラッジは、中学校時代、ある活発でいささか騒々しい青年と同級となり、一緒にある新聞を発行していた。その評判と影響はすぐに学校の壁を越えて広まっていった。社会主義運動が始まり、火の手が上がった。燃え上がった火はフォルリ中を震撼させた。言い忘れたが、その青年の名はベニート・ムッソリーニである。
そんなわけで、祖父は投獄された。未来の独裁者ムッソリーニは、ここで自分の周辺を真空にしてしまうという周知のテクニックを見につけた。友人たちを回りに立たせ、その囲いの中で睨みをきかせるという方法である。しかし、祖父アルフレッド・ラッジは運よくそこから脱出することができた。祖父はすぐに亡命の道を選んだ。そこで母は生まれ、やがて私の父となる人に巡り合ったというわけである。
*禁無断転載
|