| 記事 No.8 |
1995年7月23日(日曜日)朝日新聞 |

王貞治氏がまだ巨人軍の現役選手だったころ「スランプでホームランが打てないときはボールの縫い目が見えない」と語っていた。ホームランを打つときの王選手にほ猛スピードで飛んでくるボールの縫い目まで見えていたのだ。
こんな昔のことを突然思い出したのは、フランスの耳鼻科医アルッフレッド・トマティ博士が開発した「トマティ法」の話を聞いたからだ。フランス空軍音響心理学研究所の所長を務めていたとき彼は「聞き取れない音は発音できない」ことを発見したという。
これはどういうことか。さまざまな外国語を発音することを考えてみよう。たとえば英語で「バッド(悪い)」の「バ」と「バット(しかし)」の「バ」はまるで違う発音だ。前者の方が口を大きく開けて派手に発音される。あるいは仏語で「ボンジュール(こんにちは)」の「ジユ」と「ジユテーム(君が好きだ)」の「ジュ」はやはり違う発音で、その違いは、口を閉じてもごもごと「ジュ」と発音するその微妙な「もごもご具合」の違いである。
トマティ博士は、各言語でよく使われる微妙な発音の違いは、その発音に含まれる「周波数」の違いであり、それを聞き分けられることが正しい発音をするには必要であることを見いだした。
試しに、口を大きく開けて「アー」と言いながらだんだん口をすぼめて連続的に「ウー」に変えていくと、ちょうどオーディオ装置で高音を絞ったときのように、音がもごもごになっていく感じを聞き取ることができる。これが含まれる周波数の違いだ。仏語には英語よりも低い周波数を含む音が多いという。そういえば英語にはさまざまな種類の「ア」の音がある一方、仏語にはいろんな「ウ」がある。日本語だけで育った耳にはどちらも聞き分けにくいが。
音楽は、このようにさまざまな周波数を含む音が時間とともにうつろっていくのを楽しむものだといってもいい。しかも音楽で用いられる音の周波数は言語のそれと大部分一致している。楽器の音色の違いもまた、含まれる周波数の違いだ。ある言語だけで育った耳には聞き分けられないばかりか演奏し分けられない微妙な音色の違いを、ほかの言語で育った耳は聞き分けたり歌い分けたりできるというのだ。
だが失望することはない。トマティ博士の最も重要な研究成果は、ある周波数に対する耳の感度を、たとえ成長してからでも訓練次第で上げることが可能だということなのだから。あなたの耳だってまだまだホームランを打てるかもしれない。
(フランス国立科学研究センター研究員・在パリ)
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