| 記事 No.1 |
1993年(平成5年)12月3日(金曜日)日経朝刊 |

声の悩みは耳に原因
フランス人は一般的に英語が不得手といわれ、スラブ民族は語学の才能にたけているという。また、同じ人間でも、すばらしく歌が上手な人間がいるかと思えば、いくら練習を重ねても音程が外れてしまう人がいる。これは一体なぜなのだろうか−d人工的に作った「電子耳」で声の治療をする研究は、四十年ほど前、こんな疑問から出発した。
一九四四年、パリ大学医学部を卒業後、耳鼻咽喉科医として独立した私のもとには歌唱トラブルを訴える声楽家が通院していた。オペラ歌手だった父の友人知人たちである。そのころは音程が外れる原因は咽頭(いんとう)にあると言われており、薬で咽頭の緊張をほぐすのが一般的な治療法だったが、効果は薄かった。原因は咽頭ではなく実は耳にあるのではないかと考え始めていたが、まだ詳しくはわからなかった。
五〇年にフランス空軍直轄の音響心理学研究所の所長になり、ボイラー製作所で働く労働者の難聴治療に取り組んだ。防音へルメットをはじめとして様々な安全対策はとられていたが、騒音が耳に与える影響の大きさに驚いた。難聴だけでなく、だるい、疲れやすいという症状。重症になると思考力、創造力の低下にもつながるのだ。
同時に外国語の歌詞がうまく発音できない、音程がはずれてしまうと悩みを打ち明ける声楽家たちのデータを集め始めた。するととうだろう。聴力障害曲線と音声障害曲線が一致することを発見した。「聞こえない音は発音できない」。つまり声の悩みを解消するには耳を治す必要があるのだ。
聴力上げて音程を調節
人間の耳は毎秒十六ヘルツの低音から約一万六千ヘルツの高音までを聞き取れる。しかし、各国語を話す患者や声楽家の声のデータを調べていくうちに各国語圏下でそれぞれに、特定の周波数の音が優先的に使われていることに注目した。「パスバンド」という優先的な周波数帯があるのだ。例えばフランス語では千からニ千、英語は二千から一万二千、イタリア語ではニ千から四千ヘルツがパスバンドである。フランス人が英語の発音に苦労するのは英語のパスバンドがフランス語のそれの終わるニ千ヘルツから始まっていることと無関係ではないだろう。周波数のちがいは発音にも現れてくる。フランス人はLaboratoire(実験室)を「ラボラトワール」と発音するが、スペイン語ではこれを低音側に引っ張り「ラボラトリオ」となる。子音主体で周波数の高い英語は唇の先で話し、最初の音素の「ラ」を短く極端に強調して「ラボラトリー」という具合だ。
五二年には「エレクトリック・イヤー(電子耳)」なるものを発明した。高さ五十センチほどの箱型の器械で、様々な周波数の音を出す。さらに特徴的なのは一定範囲の周波数の音だけを取り出したり、排除することができる。また特殊な加工をして胎児が母親の体を通して聞く音を作りだした。フィルターをかけて単語を認識するのではなく、言語のリズムと周波数だけに集中するためだ。この音は耳をリラックスさせる効果もある。この器械からの音をヘッドホンで患者に聞かせて聴力の治療をする。イタリア語のオペラを歌いたいフランス人歌手にイタリア語のパスバンド内の音を聞かせて、高音を発し、イタリア語が発音できるように耳を慣らすのだ。
イタリア人のマリア・カラスもこうした患者の一人である。一九五三年ころのことだ。波女は電子耳のことはまだ知らず、知人の声楽家に紹介されてやってきた。「右耳が聞こえず、音程をコントロールできない」という。
人間には右利き、左利きがあるように、耳にも「利き耳」がある。カラスは自然と自分の利き耳が右であることを知っており、聴力を上げてほしいと訴えた。そこで電子耳をイタリア語の中でも高めのナポリ地方の方言のパスバンドに合わせて治療した。毎日ニ時間のトレーニングを十二日間続け、数力月のちにもう一度十二日間通った。結果は後女の歌声に現れた通りである。
声を良くして俳優に
俳優のジェラール・ドパルデューに初めて会ったのは彼がまだ十六歳の時。聴力が記憶力、理解力などにも影響し、声の質も左右する話を聞いて診療所の戸をたたいたという。むろん当時はまだデビュー前だが、セリ→フを覚える記憶力をアップし、声をよくして「俳優になりたい」と語っていた。
二度目に彼を診たのは九〇年に封切られた映画「グリーン・カード」の撮影前だ。米国人女性と偽装結婚して米国の永住権を獲得しようともくろむフランス人役。氷住権の審査官の前で話すシーンではフランス語なまりのない英語を話す必要があり、英語の音に耳を作るために電子耳が威力を発揮した。ドパルデューはこの映画でゴールデン・グロープ賞主演男優賞を取っている。米国公演のたびに、耳のプラッシュアップのために
診療所を訪ねるフランス演劇人は今でも多い。
電子耳で「英語の耳」に調整したら、今度はフランス語が聞き取れなくなるのではないかと質問されることがある。しかし、小さな子供が母国語と外国語をいとも自然に聞き分けるのを聞いてうらやましく思ったことはないだろうか。人間の耳は環境に順応できるのだ。したがってフランス語の耳を作ったあとで英語やほかの言語のトレーニングを受けても、耳が混乱することはない。言葉が変わるとそれにあわせて耳がパスバンドの位置を移動せるようになる。
記憶・集中力の改善も
五七年にフランス科学アカデミーと国立医学アカデミーで電子耳で治療して得た耳と声の関係についての学説を発表してからも研究を続けてきた。これまでデータを提供していただいた患者さんはいったい何万人に及ぶことだろう。現在では世界の十七力国にニ百ほどのセンターを設立しており、パリでは年間三、四千人のトレーニングをしている。
ただし、私の診療所は「語学ラボ」でないことだけ付け加えておきたい。言葉を認織する前の段階の「耳の準備」とでもいうべきか。だからこそ語学学習者だけでなく、音楽家、学習困難児の治療や、記憶力・集中力の改善にむ応用できる。聴力を上げれば、まわりの音や人の声にも敏感に反応するからだ。今後は聴力と脳についての研究を進めて、より多くの人々のお役に立ちたいと考えている。 この度、東京の六本木と上北沢にも小さなセンターを発足させた。フランスに留学していた娘さんがパリのセンターで語学トレーニングを受けたきっかけで、カウンセラーの資格を取得した村瀬邦子氏が代表となっている。一日二時間、のべニ十三日間のプログラムをすでに四十人ほどの受講生が始めている。これを機会に「耳」の働きへの関心が高まってくれれはと願う。
(パリ・カトリック協会臨床心理学校心理言語学教授、音声医学者)
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